『水曜どうでしょう』


 『水曜どうでしょう』(以下、水曜)のボックスを買う。

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 観る。

 たいへん、おもしゅるうございました。



 『水曜』の噂は、一、二年前から聞こえてはいた。
 しかしそれがテレビなのかラジオなのかすら判らない状態が長く続き、
 クイック・ジャパンの特集を読んで、やっと詳しい情報を知ることができた。
 のだが、
 イメージ的に『電波少年』の亜流のような、
 悪く言えば、毛が生えた程度といった印象が拭えずにいた。
 で。
 ボックスが出るってんで、一抹の不安を抱えながらも、
 それはそれでネタになるかななどと、
 買ってみた、観た。
 それがなんか、
 異様に、
 おそらく、異様、という表現が現在もっとも適しているであろう、
 おもしろかったのだ。

 とりあえず、
 ローカル局の番組なんで一応、簡単に説明いたしますが。
 大泉洋と鈴井貴之の二人のタレントをメインに、
 様々な「企画」を行い、
 ディレクターの藤村とカメラ担当の嬉野のスタッフ二人が同行し撮影する、番組である。

 さて。
 こんな説明ではさっぱりだとおもわれますが、
 じつは、
 これ以上の説明はたんに「企画」の説明になってしまい、
 番組のおもしろさの本質から離れてしまうのです。
 それがこの『水曜』の異様なところで、
 他のバラエティ番組とは異なるところだとおもうのです。
 わたくしは。

 『水曜』のポイントは、「企画」ではなく、出演者とスタッフの「四人」にあります。
 (わざわざ裏方であるスタッフの名前を挙げたのも、そのためです。)
 ぜんぶのプログラムを、当然、観たわけではないので推測になってしまいますが、
 メインになる企画は、「サイコロの旅」というものです。
 東京から千歳へ帰るため(『水曜』は北海道のローカル。)、
 サイコロの出目でルートを決める。
 ルートの中には直帰できるものもあれば、
 反対方向の四国や九州や西日本方面や四国や九州や四国や九州や四国や九州などもあり、
 行き先は100パーセント運まかせで、北海道に帰るまで延々と繰り返される。
 少々変わってはいるが、
 抜きん出て特殊だとは言い切れないシンプルな企画である。
 インパクト的にも日本国内限定なので強くはないし、
 何よりゴールへ進むことが第一条件なので、
 必然として「移動」が主にならざるを得ない。
 今現在のテレビ番組として、
 改めて考えてみても地味な印象を受けてしまうのだが、
 そこで重要になってくるのが、
 大泉、鈴井のタレントとしての力量、タレント性である。
 ある、
 はずなのだが、
 『水曜』はそういった「タレントの、芸人の、芸」としての笑いではなく、
 逆転的に、
 タレントとスタッフの関係性まで含んだ「四人の場」を全面に押し出してきた。

 「場」のおもしろさとは、
 例えば、
 友人らと一緒にいるときの、特別におもしろいわけではないのだがなんだか楽しい、
 感覚に近い。
 といったら伝わるだろうか。
 学校の部活動を終えたときの、連帯感と開放感。
 みたいな。

 身も蓋もない言い方になるが、
 大泉と鈴井のタレント性には、疑問があって、
 時折、大泉を他の番組で見掛けたりしても、
 おもしろさが十分に発揮されているようにはみえない。
 それは、
 それだけ彼のスタイルとキャラクターが現在のテレビ番組にとってミスマッチで、
 噛み合っていないことを現しているし、タレントとしての不十分さでもある。
 しかし逆に言うならば、
 それこそが『水曜』の異様で、特別なところなのだ。

 タレント、芸人さんの笑いとは、
 極端に言ってしまえば、
 自らの笑いのスペース(場)にお客さんを引きずり込んで、
 ねじ伏せるように笑わせる、ことである。だいたい。
 そーすることでお約束な遊びや、シュールな楽しみや、
 爆発的なおかしみが生まれ、
 お客さんは「不安」を取り除かれて安心して笑うことができるのだ。
 しかし、
 笑わせるもの、「芸人」と、
 笑うもの、「お客さん」との、
 線引きされた境界は絶対であり、生じた「場」の空気は守らなくてはならない。
 ある意味では非常に不自由で、秩序が厳守されているわけなのだ。
 芸人さんが、
 たとえビールケースの上でもいいから、お客さんよりも高いところに、
 ブラウン管の中でも、遠いところにいなくてはならないのは、そのためなのだ。
 その距離、
 その線引きが、絶対なのだ。
 と、おもうことにして。いただいて。

 大泉、鈴井のタレント性を完全に否定するわけではないが、
 『水曜』の「四人」の場においては、素に近い笑いの感覚が勝ってしまっている。
 それは四人のそれぞれの方向が、
 それぞれではあるが、
 四人という内輪に向かって放たれ、反響し、
 共鳴し、増幅された、「笑い」だからだ。
 そこには自然とうまれる囲いのような、閉鎖的な感覚はあるのだが、
 目の前のニンゲンを笑わせるために、
 大きな声でバカをやり、
 大きな声で笑って応えるヒトタチが、おもしろくないはずがないのだ。
 と、おもう。
 番組を作るスタッフ側にも、そのおもしろさに対する確信があるはずだし、
 だからそれを許しているのだとおもう。
 そして矛盾するようだが、
 その笑いの、おもしろさこそ、
 大泉を含めた四人の才能、タレント性ではないかと、おもう次第なのでございます。

 『電波少年』には、企画以上のおもしろさはあまり必要とされなかった。
 旅の経過やハプニング、言動や身形の変化等々、
 ポイントはたくさんあっても、
 そこに猿岩石である理由、
 ドロンズである理由は求められなかった。
 誤解を生むような言い方になってしまうが、誰でも良かったのだ。
 言ってしまえば。
 なぜなら主役は、「企画」だからだ。
 それが『電波少年』のスタイルだったのだ。
 誤解無きように。

 『水曜』の企画とは、出オチに似ている。
 シンプルすぎる「企画」は番組内で発表された時点で、
 その役目を完全に終えてしまう。
 だから番組の主役は、
 企画の達成でも、ゴールでも、経過でもなく、
 四人と、そのしゃべくる、場になった。

 それが亜流でも、何匹目かのドジョウとしてでもなく、
 オリジナルとして人気を博し、
 ローカルの一番組でありながら全国区的な支持を獲得した、所以なのではないだろうか。

 ええ。
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Commented by りーた at 2005-04-07 21:40 x
どうでしょうの「良さ」は見てる側の「疲れなさ」だと思ってます。
ここ数年、似たような企画の番組が日本中のローカルバラエティで、
いろいろと生まれてたりするのですが(どうでしょう効果か)、
何見てもたいてい「どこか疲れる」んですよね。
それは、きちんとした番組を作ろうと「しすぎてる」というか。
こだわるべきところがズレてるのではないかな、と思いますです。

「水曜どうでしょう」にはディレクター陣の「無駄」とも思えるこだわりと、
ロケそのものや出演者陣の「適当さ」がバランス良く、
「番組を見させていただいております」という気分にならないんですね。
これはたぶん、四人や、さらにその周囲の人たちの性格やら人間性が、
「心地よい」雰囲気に属しているからではないか、と思ってます。
言ってみれば「癒し系」なのかなと。
なので、ちょっぴり疲れてるっぽい人に勧めてます。

ちなみに、ほとんど「全話」見ています。
Commented by y.k-ybf at 2005-04-10 22:07
 癒し系。
 とはまったくおもわなかったけど、言われてみればそんな気がする。
 リズムというか、
 「流れ」が、素晴らしいんだよね。
 けっこうな時間なのに、観てて、疲れない。

 また改めて書きますが、
 「疲れなさ」には、「疲れる」番組というのがあるわけで、
 今ちょっと、不安もある。

 でも『水曜』は、
 「番組」を誉めると「大泉・鈴井」の無自覚さを指摘するようだし、
 また二人を誉めると、「番組」の粗末さを指摘するようで、
 難しいです。

 どちらも違うんだけども。

 ただいま、2周目を副音声で観ています。
 早く続巻を、
 四国のホラードラマや、
 ピストル大泉の「撃ち抜くぞっ」が、観たいです。
by y.k-ybf | 2005-04-04 22:39 | テレビ | Comments(2)

むしろ、レコード・プレイヤー、の、ようなもの。


by y.k-ybf
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