『セッション』、観た。1234,1234.1234.



 ジャズ版「スポ根」映画で、『ロッキー』のよーだ、
 とゆー表現を先に耳にしておりましたが、
 鑑賞後に連想したのは、『フルメタル・ジャケット』でした。
 鬼教官にシゴキ抜かれたあの新兵のデブが、
 完璧な兵士となり、
 ベトコンを皆殺しにしてから、鬼教官もM16で蜂の巣にするよーな。
 勿論、『フルメタル・ジャケット』はそんな内容の映画ではないのだが。

 ジャズ・ミュージシャンの菊池成孔と、映画評論家の町山智浩との間に、
 論争…とゆーほどではないが、論評の対立があった。
 (菊池さんの見解がコチラで、
  それを受けた形の町山さんの反論がコチラ。)

 一応、どちらの意見も読ませて頂きましたが、
 菊池さんの文章は、わたくしには難解でほぼ理解できませんでした。
 なので、
 正しいかどーか解らぬままに要してしまいますが、
 ジャズ映画を冠してるくせに、ジャズ・ミュージックとしてダメ。
 そこをごっそり抜いて、スポ根映画としてもダメ。
 まったくダメ。ってのが、ジャズ・ミュージシャンとしての菊池さんの意見。
 それに対する町山さんの意見は、
 プロの視線によるジャズのクオリティについて判断はできないが、
 映画としては成立しているし、評価されるものだ、とゆーもの。
 あくまで、ざっくりと要してみたが。

 確かに、ジャズの映画、としては歪んでいる。
 何故ならジャズ・バンドをメインとしながら、
 クローズアップされるのは、ジャズ・ドラマーの若者、ただ一人だから。
 この映画はジャズ・ドラマーの映画であって、ジャズ・バンドの映画ではない。
 だからカメラは常に彼だけを追い、寄り添っている。
 しかしテンポもグルーヴもろくに判らない粗々しいドラミングは、ジャズの美しくしなやかな調べなど、表現できない。
 できていないよーに聞こえるし、そー見えるよーに映されてもいる。
 でもこれは、演出だ。
 音楽院の教師であり指揮者のフレッチャーが、
 優れたジャズの指揮者かどーかは理解できないが、
 彼の病的なスパルタの暴力性は、音楽素人の誰にでも理解できる。
 これも、演出。

 この時点で、映画の方向性ははっきりと提示される。
 二人がそれぞれの理想へ挑む、姿そのものに。

 スポ根の構造から逸脱するのは、
 彼ら二人が勝利や優勝と云った、安易な共感を目指していないからだ。
 それは、
 『ロッキー』とゆー物語が、勝利を必要としなかったことに通じる。

 金にもならない、知名度もない、
 ピラミッドの世界では何の価値もないドラムを、何故続けるのか?
 誰にも理解されず、期待は裏切られ、憎しみと苦悩を背負っても。

 ジャズ・ミュージックはなくとも、
 スポ根でなくとも、
 理想を抱き、追い求める者には物語が生まれる。
 そして相反するよーだが、
 だからこそ、誰もが想いを重ねられる映画になったのではないかな。

 賞賛もなき日々に、
 血塗られた絆創膏で、ドラムを叩き続けている。
 『セッション』とは、そーゆー映画ではないかとおもふ。



 追記。
 いろいろと書き直している内に半分ぐらい削ってしまったのだが、
 ジャズであろーと、8ビートのロック・ジャズであろーと、
 あのラスト、
 二人が言葉ではなく拳でもなく、演奏で殴り合ってぶつかり合うよーな、凄まじい演奏シーン。
 視線と表情が繋がり、バンドや観客の反応すら映さない、
 あのラストシーンには、身体が硬直するほど圧倒された。
 この結末が何を意味するのか、
 思い返しながら、何度も考えている。

 素晴らしい体験であった。


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by y.k-ybf | 2015-04-23 23:46 | 映画 | Comments(0)

むしろ、レコード・プレイヤー、の、ようなもの。


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