『ばしゃ馬さんとビッグマウス』、観た。
2015年 08月 18日
ちょいと昔、
わたくしは、千代田工科芸術専門学校の文芸科とゆートコロに通っておりました。
文芸科とは、
雑誌の記事や編集、シナリオ、作詩等、文芸と呼ばれる全般の勉強をするトコロでありまして。
要するに、
作家とゆーか物書きとゆーか、モノツクリを目指しておったわけでございます。
そもそも千代田工芸は、願書が届いた順に入学できると噂の専門学校で、
必然的に、集まってくる奴らもいろいろなわけですよ。
それこそばしゃ馬さんもビッグマウスもごろごろいたし、
大雑把に云ってしまうと全員モラトリアムみたいなもんで、
それをどーやって形にするのかが、判らなかった。
と、おもふよ。
しかし当然とゆーべきか、
(同期で、今も業界にいるヒトは、いるのかな…?)
わたくしも当時はコンテストへ応募したり、出版社へ持ち込みへ行ったり、会社訪問したりと、
なんやかやありまして、
いまでは下町の八百屋さんで仏花売ってますよ。
まあ~~~、そんなもんですわな。
そんなもんのヤツが、
この『ばしゃ馬さんとビッグマウス』を観ると、あるあるあるあると既視感のコンボ状態になるのです。
呑み会で泥酔しながら後輩を説教しまくった後、常磐線を豪快に乗り過ごして茨城の僻地まで連れて行かれるとゆー、
才能とゆー言葉が繰り返し出てくるけど、才能があるヒトほど「才能」なんて言葉は使わないんだよな。
(作中で成功する彼女は、じつに「らしい」けど、
プロデューサー?と寝た、と匂わす描写は余計だったかな。それは他のキャラでよかった気がする。)
「才能」とは、
才能が無かったヒトが使う、とても有効な方便。
良い意味でも、悪い意味でも。
だからそこに拘ることも、迷うこともない、んだけどねー。
そんな「才能」とゆー言葉を捨てるトコロまで、出来れば描いてほしかった。
ニンゲンには身体のなかにエンジンがあって。
鍛えて育てることも出来るし、チューンナップも出来る。
このエンジンが才能とゆーモノ…ではなく、
エンジンを動かす為のガソリンが、才能みたいなもんかなと、わたくしはおもふのですよ。
動くことが、
だから、止まることは難しくて、苦しいのだ。だってまだ動けるのだから。
最期、
二人が自分自身を題材としたのも、自然な流れでよかった。
二人はいいシナリオが書けるよーになったと、おもふよ。
夢は捨てなくても、破らなくてもいい。
永遠に来ないかもしれない、いつか、と、眠らせてあげるのだ。
と。
いろいろ余計なことまで思い出させてくれた、『ばしゃ馬さんとビッグマウス』。
麻生久美子と安田章大の主演二人は、
どちらも個性的で、リアルな存在感が素晴らしかったし、
細かいシーンの端々まで演出している、吉田恵輔監督の手腕も見事でした。
シリアスに傾き過ぎず、ユーモアで弛る過ぎず。
カラオケで、アジカンの「リライト」を歌わせたりね。も、歌詞がね。
秋野陽子のキャスティングは、おそらく『片翼だけの天使』オマージュだしね。
素敵。
とゆー、
かなり偏った感想になってしまいましたが、
偏った生き方をしてる方には、特別な作品になったことだろう。