『葛城事件』
2016年 08月 18日
最初に舞台版があり、後の映画化。
舞台版はモデルとなった実際の事件により近く、特異な犯人像を主軸にしたもののよーで、
同タイトルでありながら映画版とは異なる印象を受けた。
(映画で長男役を演じた新井浩文は、舞台では死刑囚の次男を演じている。)
その違いを知り、
やっとこの映画を飲み込むコトができた。
傍らに、道端に、隣に、家族に、
何処にでも育つ芽は、
日常にあるが為に、見えてはいても、見失う。
芽が、凶悪な牙を剥くまでわ。
この映画で描かれる日常はエグい。
あの家も、住宅地も、
既視感とゆー言葉が白々しくおもえるほど、見慣れた光景だった。
わたくしは下町の商店街に長く暮らして働いてもいるので、
嫌ってほど見ており聞いておるので、背筋がゾワゾワする気分を味わった。
庭の片隅に植えられたミカンの苗には、未来への希望が込められていたが、
現実の未来は、
その芽は、望まれたものではなかった。
確かにあった希望は、
その身と心を灼いていったのだろう。
壮絶な日々へ、
想像が捕らわれる、劇薬のよーな映画。
強圧的な力で家族を支配する父と、
獄中結婚を望み、一方的なエゴを押し付けてくる女性は、
同じ「父親」だった。
父性無き、父。
二人は只々、次男を追い込み、許そうともしない。
(父は、
諦観したかのよーに次男への罰を望むよーになり、
女性はそもそも何の力も策もなく、状況だけを欲していた。)
次男と父の言動が、時折重なる点も興味深く、
そしてこの家族には、母親がいない。
存在は既に形骸と化している。
母性無き、母。
食卓には冷めたピザが並び、
料理が作られることはなく、温かい食事にはケチがつけられる。
(あのコンビニ弁当とカップ麺の「最後の晩餐」が、最も「食卓」らしい皮肉。)
時系列を組み替えて、物語ではなくエピソードで語る意図は、
この家族を特異な存在にしたくなかったのだろう。
独立した一枚の絵ではなく、