『スイミング・プール』
2017年 03月 31日
フランソワ・オゾン監督の、03年公開作。
中年女流作家と、若いギャルとの交流を描く、
ちょっとしたサスペンス。
ギャル。
若いギャル。
軽いとゆーより、あえて薄いタッチにすることで、
作品テーマが重くなるのを避けたよーな意図を感じました。
確かに、ハネケと似ている。
しかしハネケ独特の意地の悪さとゆーか毒っ気も、重さもない。
代わりに興味深い空白が残される。
原稿、日記、
残されたコピー、完成した本…。
そこに書かれていたモノは?
二人の女性の本心も、その表情から想像するしかない。
そしてラストに現れる、「娘」の存在。
あの母娘と編集長との関係わ?
とゆーか、
同じ名前の娘との関係が??
ってなトコロまで想像が広がる、空白とラストシーンが良い。
と。
感想をまとめた後で、
ネット検索したり、他の意見を聞いたりしたら、
「あのギャルは妄想の産物」説が有力なのな!
ギャルが一人で車を運転するシーンとかあったのに…。
悔しいので、もう一度観返してみたよ!
わたくしのギャル愛人説は流石に飛躍した感想だとおもいますが、
ギャル妄想説も、断定と云えるほどでもないのだな。
そもそもギャルの母親の存在が曖昧なので、編集長との関係性の疑念も晴れなかった。
(コレも飛躍だけど、
ギャルと編集長は通じており、
それを知った母親はショックで自殺したのでわ?
ギャルがある種のファーザー・コンプレックスを抱えているよーにも見えるし、
死が隠された理由にもなるし。
「ハーレクインのよーな甘ったるい小説」とは、
母親ではなく、
ギャルの絶たれた恋愛心理を表現しているのかも?
とは、コレもまた飛躍か。)
しかしストーリーの中心はあくまで中年女流作家(サラ)の方なので、解釈はそちらへ傾けるべき。
ギャルは実在した上で、
と判断するのが、
最も自然な反応ではなかろーか。
なので、
「ギャルはサラの願望。母親≒サラ」説も否定しません。
「生き返る」とは、自己を取り戻すとゆー二重の意味を含んでいるのかも。
また、
彼女を「サラ」って呼ぶ人物はかなり限られており、
作中、いろんな呼び方で呼ばれるのもポイントの一つではなかろーか。
と、
解釈の幅が異常に広いので、映画三本分ぐらい楽しめましたよ。
一見、地味でフツーな感じなんだけどね。